私と世界が同一なら、私が世界で、世界が私。「我に返らないことが幸せ」

本について話すよ
だてねこ
だてねこ

色々な作品を通して、「自分」や「私」について考えたよ

だてねこ
だてねこ

自分のものって定義できなくない?ってなって

そしたら、自分とそれ以外を区別できなくない?てなった

だてねこ
だてねこ

私とそれ以外の区別が明確にできないなら

それってもう、私って世界じゃんてなった

だてねこ
だてねこ

例えるなら、川に流れる泡が私たちで

川が世界になるのかも

多分ここで言っていることって仏教が言っていることだと思う

以上が今回言いたいことです。

ですが、すごーく不十分で伝わるのってごく一部だと思うので

この先もぜひ読んでくださると嬉しいでゲス

今回すごーく哲学的や、見方によってはスピリチュアルか?と思う要素が多々出てきます

これはその人の捉え方次第になる所なので、各々の解釈にお任せいたします。

自由にお楽しみくださいませ

今回すごーく参考にしている本がこちら

この本を引用しながら感じたこと

思ったことを言っていくよ

自分のものって証明できる?

自分のものってどうやって証明するんだろう?

という疑問が湧いたんだ

自分でお金を払ったものや

誰かからもらったもの

社会からもらったもの

などは確かに自分のものってわかるかもしれないけど

この所有感てただの感じているだけで

誰のもってわけじゃなく、本当はないんだなってこと

だって、この所有しているって勝手に

人間が思い込んでいるだけというか

そう決めただけのものなんだよね

ということは、自分のものって明確に

証明することってできないな〜って思った

自分って証明できる?

自分のものって明確に定義できないなら

自分や、私、というのも明確に定義することって難しくない?と思った

これって

自分と、自分じゃないもの(世界)を区別することって

できないんじゃないかな

そう思ったんだよね

私は世界、世界は私

ここからは、今回参考にした本の中で考えていくよ

西田哲学では、「私」は、世界から切り離された独立した存在ではなく、世界と一体化している存在だと考えられています。

西田幾多郎「善の研究」 がわかる: 人間の存在への問い:やさしくわかる名著 

高村悠人

 

これって

こうじゃなくて

こうなのかなって思った

※この「世界」っていうのは肉体的に存在する「私」以外のものすべて

これって私たちって「自分」や「私」を

考える時に、私から私をみているからわかりにくいのかなって思って

私と世界の境界がないなら

世界から私をみた方がよくない?

わかりやすくない?って思った。

あと、ここから言えるのは

自分て「ある」けど「ない」んだなってこと

この世界でもあり私でもあるなら

私ってあるようでないのかもって思った

これが仏教でいう、無我ということなのかも

わかりやすく川に例えてみるね

例えば

川が世界で

泡が私たちなら

すごい下手ですみません

川と泡って明確に区別できないもんね

川が泡でもあるし、泡も川とも言えるかなって

思って

こんな感じで世界と私て同じなんだと思った

世界と私が同じと感じるためには?

「純粋経験」があります。

これは、簡単に言うと、私たちが何かを「感じる」とき、世界と自分自身との境界がなくなるような、一体化した状態のことです。

西田幾多郎「善の研究」 がわかる: 人間の存在への問い:やさしくわかる名著 

高村悠人

この純粋経験ってすごーく身近に、誰でも経験したことがある言葉で言うと

見惚れる、熱中、集中、我に返っていない状態ってことだと思う

この時々って「あれ?自分何してんだろ?」って思わないと思うんです

自分というものを認識しない

自分とその対象の境界がなくなる

そう言うことだと思います。

これが私が世界なんだと感じることなのかも

我に返らない=幸せ

この私が世界で、世界が私って

我に返っていないこと。

この我に返る時間を少なくすることが幸せの第1歩なのかもしれない

我に返ると、色々なことを思考したり、過去、未来に意識が飛びやすいように感じる

我に返っている間って幸せを感じないのかなて思った

世界と私が同一になる感覚が私たちが幸せと呼んでいるものなのかなぁ〜て思ったりした

だから幸せに生きたいと願うなら

極論、我に返るな。

私に戻るなって事なのかな?

もう少し議論や思考が必要そうだけど

余談ですが、他者に自分を見出すことが愛すると言うことなのかも

もう少し、目線を狭めて考えたのですが

一般的に、私と他者を区別していますが

この境界(他者と自分を区別しているもの)がなくなった時が

愛しているになるのかもしれない

これって

他者に、自分を見出すことができた時

他者の中に自分を感じたりしたら愛しているになるのかも

自分と似ている人を好きになるのって

この他者に自分を見出すことがしやすいからなのかも

人を好きになったり、愛することって

他者に自分を見出すことができた時なのかもね

自分を愛することができない人は他人も愛せない

って言うのはこう言うところから来ているのかも

しれないね。

その分距離を置きたい人とは、他人に自分を見出さなければいいのかも

嫌いな人に自分を見出しずらいから、理解しにくいのかもしれない

だけど、行き着く先は皆同じなのかもしれない

川の先の海なのかもね

今日はここまで

それじゃ、またね

今回の思考の基盤になったもの

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